阪神・淡路大震災30年。武蔵野市は給水車2台を1月下旬から3月上旬まで派遣。復興期には芦屋市に技術職を2年長期派遣し、プッシュ型支援のため大規模被災地支援条例を制定。困った時はお互いさま

阪神・淡路大震災30年。武蔵野市は給水車2台を1月下旬から3月上旬まで派遣。復興期には芦屋市に技術職を2年長期派遣し、プッシュ型支援のため大規模被災地支援条例を制定。困った時はお互いさま

淡路島北部を震源地とする阪神・淡路大震災が発災したのは平成7(1995)年1月17日(火)午前5時46分。高速道路が途中で崩壊して、半分宙づりになったバスが落下しそうになっている映像に衝撃を受けた。

武蔵野市から直ちに市の防災監を中心に職員をつけて食糧を送ったが、大渋滞で2日かかった。近辺の都市から支援物資がすでに届いていたので、もう食糧はいらないとの報告。必要なものは水だという。そこで水道部の給水車を2台、広報車1台の計3台と職員6名を神戸市に派遣し、1/25~3/5頃までの40日間給水支援に当たった。当初は、焼け残った公共施設の土間に寝ていますとの報告。そのうち一週間程経つと場所が変わり、畳の上で寝ていますとの報告。一週間交代勤務で1チーム7泊8日。1日はダブって引き継ぎ日。新幹線で職員は交代した。

山の上の浄水場まで行き、水を満タンにして避難所等に先導する広報車が「給水車が来ました」と広報すると、10ℓのポリタンクを持って住民が集まってくる。2月中下旬になると避難している住民の方から感謝の言葉もいただくようになった。「ありがとう。多摩ナンバーを見ると涙がでる。武蔵野市さんが大地震にあったら、応援にかけるつけるよ」と職員が逆に激励される。3月上旬、神戸市から「相当復旧したので、これからは自前で給水します」とのことで給水救援を完了した。

その間にも、放置自転車を修理して60台を長田地区に送ったりした。救援物資の内容も変わり、当初のブルーシート等から歯ブラシや生理用品、さらに壁に貼る模造紙・文具類等の生活用品が不足していて、改めて支援の在り方を実感した。

国の災害対策基本法の骨子は①被災地からの要請に応じて支援する ②支援にかかった費用は要請した自治体が負担する である。これではダメだと思い、1995年3月の市議会に「武蔵野市大規模災害被災地支援条例」を提出し、可決・成立。プッシュ型支援の先駆けとなった。

さらに復興の段階になり、芦屋市の要請に応えて建築等の技術職員を2年派遣した。長期派遣職員からは定期的に報告を受け、状況を把握するとともに激励した。

阪神・淡路大震災で学んだことは、日頃の備えといざという時の支援のネットワークである。現在、武蔵野市は姉妹友好都市と相互支援の協定を結んでいる。

犠牲になられた6000余名の方々のご冥福を祈るとともに、この教訓を将来に活かすべきと思う。

小美濃市長は、防災に強い街を政策の最上位に掲げている。