中曽根元首相は理念を掲げて進むタイプの政治家でした。
昭和56年臨時行政調査会が発足、民間人を主体として小さな政府をめざして様々な提言がなされました。その時の鈴木善幸内閣で行政管理庁長官が中曽康弘元首相でした。
調査会会長の東芝元社長の土光敏夫さんが夕食にメザシを食べながら、スリムな行政改革を主唱したのがテレビで繰り返し報道されました。当時の中曽根長官は「行革三昧」と繰り返し記者団の質問に答えていました。
昭和57年11月に中曽根内閣が誕生しました。内閣の大目標は「国と地方の行革」でした。しかし行政改革という聞きなれない言葉が、当時は国民に理解されにくかった。
そういう時代背景の中で、武蔵野市職員4000万円高額退職金問題が発生しました。翌昭和58(1983)年4月の武蔵野市長選挙で私は当選し、5月1日に市長に就任しました。20年ぶりの保守市政になったものの、果たして41歳の若僧が強力な市職員組合を相手に退職金問題を解決できるのか?お手並み拝見といった論調のマスコミと「否、絶対にやるべきだ」という市民の主張とがぶつかり合って全国の注目するところとなり、大政治課題となりました。新聞・テレビ・ラジオ・週刊誌等の全マスコミが連日報道しました。
私は長引くと市役所が腐ってしまうと考え、二週間で削減案をまとめ、組合と連日連夜交渉し、最後は三日間の徹夜交渉で ①直ちに1000万円引き下げる ②その後、経過措置で国家公務員並みにする という案で妥結し、5月30日に臨時市議会を招集し、改革案を上程、市議会は6月2日に全会一致で可決しました。私が市長就任1か月の出来事でした。
市職員高額退職金問題が全国民の知るところとなり「行政改革とは、こういうことだったのか」というイメージが作られました。
中曽根元首相は国会で「我が党の推薦する武蔵野市長が、高額退職金問題を解決した」と発言したと伝え聞きました。
その後、国鉄がJRとなり、電電公社がNTTとなり、専売公社がたばこ産業になり、各々立派な成績を挙げる民間会社になっています。行政改革は中曽根元首相の第一の業績であり、私も地方改革の先駆けとして行革の一端を担うことが出来たと思っています。
戦後史の中で群を抜いた活躍をされた中曽根康弘元首相のご逝去に改めて哀悼の誠を捧げます。
※武蔵野市の高額退職金問題の一連の出来事をまとめた『武蔵野ショック 高額退職金是正に燃えた30日』(出版社:ぎょうせい)を武蔵野市が企画して出版されています。図書館にありますので、ご参照ください。