昨日、ホストタウンの第1次登録の発表があり、全国44カ所の1つとして、武蔵野市がルーマニア国のホストタウンに指定された。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックでルーマニア国の選手等をお迎えすることになった。慶祝すべきことだ。
ルーマニア国ブラショフ市との交流は、1991年ブラショフ市ジョルジュデイマ交響楽団の指揮者曽我大介氏(武蔵野市関前在住)が、市長(当時)の私のところに来訪されたのがきっかけだ。
曽我氏は「ルーマニアでは、1989年12月に独裁者チャウシェスクが倒され、1990年から民主革命が始まりました。
長年、共産党の独裁体制だったため、民主主義国に変革するために、人々はとまどい混乱が続いています。ルーマニアの人々を早く西洋社会に連れ出してあげたい。
私が音楽監督している国立ジョルジュデイマ交響楽団を日本に招へいしたい。市長、協力してくれませんか」との話だった。
時代はソ連邦が崩壊し、米ソの冷戦から新時代へ移行する歴史的大変革期を迎えていた。
武蔵野市には、国際的に活躍しビジネスを展開する市民も大勢いるので、世界的大変革の時代に何かお手伝い出来ればと考え、翌1992年が市制45周年でもあり、記念事業として取り上げることとし1500万円の予算を組んだ。
翌年1992年9月ジョルジュデイマ交響楽団60名が来日した。
当時はオープンスカイではなかったので、飛行機代金は往復1名60万円もするという。ANAの全面協力で1名23万円に割引してもらった。
飛行機代、滞在費、移動費等、5000万円近くかかったが、立川市、府中市、秋川市(現あきるの市)の三市に1公演350万円で、各々公演していただいた。
さらに翌1993年に開催の東京都の都市博覧会のプレイベントとして、都からの補助もあり、帰国の時は1000万円の楽器をプレゼントすることが出来た。来日したルーマニア人は海外公演を初めてする人がほとんどで、8000km離れた日本で自分達の音楽の公演ができ、さらに各地で大歓迎されるとはと大感激して帰国した。
このことがきっかけで、翌1993年には、武蔵野市民30名が自費でルーマニア国ブラショフ市を訪問することになった。この訪問団には、立川、府中、秋川の三市から助役、教育長なども参加し40名の大訪問団となった。
長年、鎖国状態が続いたルーマニアでは、日本から来る史上初の大訪問団として、テレビを始め新聞などに大々的に報道され、民主国はかくも自由で豊かなのだという象徴になった。
その後、文化交流から協力へということで、外務省とも連携してブラショフ市(当時人口38万人第2の都市)に日本語交流センターを設置、ホンダなどの企業OBが所長として月額25万円の実費、ボランティアで赴任してもらった。
のちにブラショフ市民の会が結成され、以来毎年26年間交流が続いているが、この10年は市民や議会交流が途絶えている。
邑上市長には「ホストタウンとして申請されたのだから、邑上市長を始め市民代表の議会や市民もルーマニアを訪問して、幅広い交流活動をして下さい」と要請した。
【2016年1月27日(水) 副大臣公務日誌】
(午後)
(参議院院内にて)
●参議院政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会へ出席して副大臣就任のご挨拶
(衆議院院内にて)
●衆議院本会議(代表質問)へ出席