本日昼より、武蔵野市肢体不自由児者父母の会50周年記念式典に出席。
肢体不自由児者を持つお父さん、お母さんが立ち上げた会だが、父母の会の不断の努力が武蔵野市の障害者福祉を前進させた。
少し長くなりますが、創立50周年の記念誌に寄稿した原稿を以下のとおり記載いたします。
*****************************************************************************************************
「創立50周年おめでとうございます。伊藤雪子会長を始め、歴代の役員の皆様、それを支えた会員の皆様のご努力で今日の武蔵野市の障害者福祉政策が充実してきたものと、心から感謝と御礼を申し上げます。
武蔵野市の障害者福祉は、昭和30年代から40年代にかけて小中学校の各種の障害児学級から始まりました。
障害児の義務教育が軌道にのってくると、放課後対策や卒業後対策をどうするか全世代を念頭においた活動が始まりました。
昭和40年に障害児を持つお父さんお母さん達が立ち上がり肢体不自由児父母の会を作ったのは、このような時代背景でした。
私は、昭和41年に武蔵野市役所に入所し保険厚生課という部門に配属されたので、障害者福祉の黎明期の雰囲気を昨日のように思い出します。
昭和50年代は千川作業所を皮切りに民間有志による福祉作業所が活動を始めた時期でした。
昭和50年私は市議に当選、当時のいずみ作業所の運営委員になり、様々な身体障害者の皆さんと行動を共にしました。
元市長の後藤喜八郎さんの令夫人が先頭に立って「障害者も街へ出よう」と運動をなさっていたのを鮮やかに思い出します。
私は昭和58年に市長に就任しましたが、当時行政関係者の評価は「障害福祉の町田市 高齢者福祉の武蔵野市」でした。
民間の福祉作業所によるきめ細かいサービスは大事だが、基幹となるべき市の施設を作ろうと決意しました。
財政力日本一の武蔵野市は障害者福祉でもトップでなければ市民の期待に応えられない、就任二年後の昭和60年長期計画策定時に「市立の障害者施設の検討」を入れました。
長期計画の策定委員の皆様からは、都の行政との住み分けや、どこまでやるのか方針を固めないと後年度負担が大変との適格なアドバイスをいただき、その成果が平成5年の武蔵野市障害者総合センターに結実しました。
これらの施策をすすめるたびに、肢体不自由者父母の会から様々なアドバイスをいただきました。
皆様の要請の中で、強く心を動かされ実現したのが「桜はうす今泉」と「なごみの家」です。365日24時間の親の会関係者が運営する施設をつくるきっかけは
「普段はこども達を親が見ていますが、病気や慶事、弔事で施設に預かってもらいたい時があります。」「その時、日頃こども達を見ていない施設に預けるのは心配です。喉に物が詰まると救急で病院に運び、すぐに切開します。
でも背中をポンと叩くと出る子もいます。」「小さくても良いから、良く気心の知れた障害児の状況をわかっている仲間が運営する施設を作って下さい。
私達は責任を持ちます。」桜はうす今泉は、今泉さんという方からご寄付をいただいた平屋建ての小さな家ですが、そこを改造して、緊急ショートとして運営を皆さんの手に委ねることにいたしました。
私が感銘を受けたのは、皆さんの自立の精神です。「天から授かった大切な我が子を親としてしっかり支えます。でも力及ばないところは、行政が力を貸して下さい。」この精神こそ、行政を動かし施策を進める原動力だと思います。
その後、平成15年には国の支援費制度、平成17年には障害者自立支援法が成立し措置から契約に代わりました。
一見、権利が保障されたように思います。しかし小規模施設の中には団体補助がなくなり、運営が困難となり、取り残されている施設もあります。国や都の政策を補完して、市政はこのような施設にも目配りをして欲しいと思います。
50年にわたって市職員、市議、市長、衆議院議員と行政に関係してきて実感しています。役人は一生懸命やるけど定期的異動するし、当事者ほどの知見は持っていません。そこで皆さんの出番です。
50周年を機に、これからも親の立場で活動を続けられることを心から期待いたします。私は衆議院議員として制度をつくる立場になりましたが、地域社会を代弁して血の通った制度をつくるために努力することをお約束してご挨拶といたします。」